2022/06/10
日本で初めて「亜鉛欠乏症」について報告(2003年)したのは、長野県の医師倉澤隆平氏である。倉澤氏は、北御牧村温泉診療所所長に就任してまもなく、村民に亜鉛欠乏症患者さんが多いことに気づく。1431名の村民の血液調査を行ったところ、村民が全体として亜鉛不足にあることを発見。その後、精力的に調査と診療を行い、「亜鉛欠乏症」についての知見を蓄積し、昨年、その成果を「亜鉛欠乏症」としてまとめ、出版した(倉澤隆平「亜鉛欠乏症」三恵社 2021)。症状としては、味覚障害、臭覚障害、貧血、精子減少、無月経、免疫低下、食欲不振、下痢、傷の回復遅延、発育遅延、など多岐にわたる。関心のある方は、ぜひ「亜鉛欠乏症」を読んでいただきたい。
この話を聞いた後、すぐに抱いた疑問は、「野菜の消費量日本一」の県でなぜ?であった。日本人はミネラルを主に野菜と海産物とから得てきた。西欧諸国では、チーズなどの乳製品を多く食べるので、牛や羊が食べた草からミネラルの多くを得て、そのミネラルの豊富な乳製品を食べることで、ミネラルを摂取している。一方、日本人は現在でも乳製品の摂取量は西欧諸国の1/10程度である。現在でもミネラルの多くを野菜から得ている。日本で野菜の消費量が日本一の県でミネラルの亜鉛が不足しているのであれば、日本人全体が亜鉛不足になっているのではないか。亜鉛不足は、日本人の健康を考える上で、非常に大きな問題である。
日本の畑の土は、亜鉛が少ないことが知られている。さらに、亜鉛は肥料のリン酸と結合して水に不溶性の塩を形成するので、植物(野菜)の根が吸収できる亜鉛の量は非常に少なくなる。そのため、野菜に含まれる亜鉛の量は極めて少ない(下記の表で標準成分表の欄を参照)。
亜鉛は、動植物とも、遺伝子の発現(ON/OFF)を調節するタンパク質に必須のミネラルであり、この機能をもつタンパク質は200種以上あることが知られている。したがって、細胞分裂の盛んな組織では亜鉛は必須である。上記「亜鉛欠乏症」には、多くの症例が報告されているが、いずれも細胞分裂の盛んな組織に関係している。亜鉛がタンパク質に結合する際には特徴あるアミノ酸の配列が必要であるが、このアミノ酸の特徴でヒトの全遺伝子を検索すると、全体の2割(遺伝子数にして約5,000)が亜鉛結合タンパク質をつくると推定されている。亜鉛にはまだ未知の機能があるのかもしれない。亜鉛というミネラルは、人体にとっても植物にとっても、非常に重要なミネラルなのである。
野菜に含まれる亜鉛の量が少ない問題を植物工場で解決するポイントは、養液組成の中で無機正リン酸の代わりにポリリン酸を使用することである。植物はポリリン酸を吸収利用することが知られている。そして、ポリリン酸は亜鉛と不溶性の塩を形成しない。ただし、ポリリン酸を分解してエネルギーを得る微生物がいるので、土壌には使用できない。植物工場でも、長期間同じ養液で栽培を続けていると、養液中に微生物が増えてくるので注意が必要である。ポリリン酸は食品添加物として、あるいは歯を白くするのに多く使用されており、植物工場で養液に使用することに問題はない。後で分かったことであるが、養液栽培で一般的に使用されている大塚ハウスの1号、S1号にはポリリン酸が使用されている。無機正リン酸に比べて、ポリリン酸を使用すると、肥料成分がよく溶けるのが特徴である。
すなわち、亜鉛を豊富に含む野菜を生産するには、養液に無機正リン酸の代わりにポリリン酸を使用し、亜鉛を添加すればよいことになる。具体的な亜鉛の添加方法については、いくつかの注意点があるので、問い合わせてほしい。第一の注意点は、亜鉛の添加量が増すと、植物に発育障害がでることである。野菜に含まれる亜鉛含量を高めることは、露地野菜では困難であるが、植物工場野菜では比較的簡単にできる。植物工場でしか実現できない野菜の生産方法である。
亜鉛を養液に添加して野菜の亜鉛含量を高める目的には、葉酸の含有量を高めることが挙げられる。植物体内には活性型葉酸であるテトラヒドロ葉酸が含まれている。いわゆる葉酸は化学的な合成品であり、植物体内には含まれていない。化学合成品の葉酸と活性型テトラヒドロ葉酸との大きな違いは、熱に対する安定性である。化学的合成品の葉酸は熱に対して安定であり、抽出操作でオートクレーブ(120℃、15分)処理でも安定である。一方、テトラヒドロ葉酸は加熱により酸化されやすい。日本食品分析センターの葉酸定量法は、オートクレーブ抽出法を採用しており、野菜に含まれる活性型テトラヒドロ葉酸にこの分析方法を適用すると、約70%が酸化分解される。サプリメントに含まれる葉酸は、化学合成品の葉酸である。化学合成品の葉酸と活性型テトラヒドロ葉酸との、もう一つの違いは、その効能の違いである。Dale E. Bredesen : The End of Alzheimer’s (2017) には、家族性アルツハイマー病の治療に、合成品の葉酸では効果がなく、活性型のテトラヒドロ葉酸が有効であったとの報告がある。化学的合成品の葉酸は、人体内で2段階の還元反応を受けて、活性型テトラヒドロ葉酸に変換される、とされているが、この変換が完全でない場合のあることが分かる。すなわち、サプリメントの葉酸よりも、野菜に含まれる活性型葉酸の方が、人体に対する効能は大きいのである。
野菜に含まれる活性型葉酸の生成量が、野菜に含まれる亜鉛含量に規定されていることを示す興味深いデータがある。下のグラフは、日本食品標準成分表(2015年度)に出ている、亜鉛含量と葉酸含量とをプロットしたものである。両者の間には非常に明確な相関関係があることがわかる。このデータから、植物はごく僅かの亜鉛しか吸収できないために、植物体内の亜鉛の量がテトラヒドロ葉酸の生成量を規定している、と考えられる。
そのため、植物工場でポリリン酸を使用して亜鉛の吸収利用を上げて、亜鉛含量を高めると、活性型テトラヒドロ葉酸の生合成も促進されるのである。活性型テトラヒドロ葉酸の生合成の律速段階は、プテリジンの生合成の初発反応にあると言われているが、この反応を触媒する酵素であるGTP cyclohydrolase I は、活性中心に亜鉛を必要とする亜鉛酵素である。
以上をまとめると、亜鉛は人体にとっても植物(野菜)にとっても、非常に重要な機能をもつミネラルであるが、日本の露地野菜には欠乏しがちである。植物工場では、露地栽培で亜鉛が欠乏する問題点を解決できるので、亜鉛を豊富に含む野菜(e-スーパー健康野菜)を生産することができる。さらに、亜鉛を増やすと活性型テトラヒドロ葉酸の合成量を増やすことができ、葉酸を豊富に含む野菜の生産が可能になる。